第六十九章

 彼女の前に立つと、上手く言葉が出てこなくなる。

 シャン・シュウエイは悩んでいた。
 彼にはずっと、伝えたい想いがあった。
 だが、言い出すことができず、現在に至る。
 上官相手でも怯むことなく自分の意見を言う男が、言い出すことができないでいた。
 彼女に。
 たった一人の、たった一人だからこそ。
 彼女だから、言うことができなかった。
 何がいけないのか。
 真面目な男は考える。
 ――恋は理屈では計り知れない、というのに。


「昨日は、雪柳の花精が現れたのかと思いましたよ」
 低い声が軽口を叩く。
 シュウエイが堂から出るとその声は聞こえてきた。
 同僚のヤン後将軍のものだ。
 嫌な予感が見事に的中する。
「まあ。
 見てらっしゃったんですか?」
 どこにいても聞き逃すことはありえない若い女性の声。
 楽しげなその声を聴いて、シュウエイはより苦悩を深くする。
 それは嫉妬と呼び変えてもかまわない感情だった。
 二人は仲良く、廊下で話し込んでいた。
 まるで、恋人同士のように……。
「花精は夢のように儚く消えていったので。
 声をかける暇がなかったんです」
 カクエキは肩をすくめる。
 鈴を転がしたような笑い声が起きる。
「とても素敵な格好でしたよ。
 是非とも、毎日して欲しいと願うぐらいには」
「あの格好では仕事になりませんわ」
「では、俺の前だけで」
 カクエキは黒にも近い青の瞳を煌かして、取って置きの声で言う。
 少女めいた女性はきょとんとして、それから弾かれたように笑う。
「冗談ではないんですけどね」
 芝居がかった仕草で、カクエキはがっくりする。
 そして、鋭い視線をこちらに向けた。
「立ち聞きとはずいぶんと良い趣味だな」
 その言葉に、黄玉石色の瞳もこちらを見る。
 彼女はシュウエイの姿を認め、柔らかく微笑んだ。
「いや……その」
 シュウエイは言葉を詰まらせる。
「こんにちは。
 今日も良い天気ですね」
 碧桃の花精は朗らかに言う。
「はい」
 言葉が続かない。
 そのため、妙な間が空く。
「何か、御用ですか?」
「いえ、その。
 あ、……その。
 ……」
 シュウエイは結局、言い出せずに終わる。
「?」
「特に、用と言うほどのものでは」
 シュウエイは言った。
 彼女の前では、言葉が上手く紡げない。
 言いたいことはあるのに。
 伝えたい気持ちがあふれ出しそうなのに。
「そうなのですか?
 せっかくですし、院子に出てみてはどうですか?
 気分が晴れやかになりますわ」
「え?」
「とても難しいお顔をしていますよ」
 言われて、人に指摘されるほど酷い顔をしているのだろうかと驚かされる。
「よろしければ、お付き合いいたしますけれど。
 院子を一巡りぐらい」
 彼女は晴れやかな笑顔を浮かべて提案する。
「よろしいのですか?」
 千載一遇の機会だ。
「ええ。
 では、風呼殿ごきげんよう」
 彼女は優雅な会釈をカクエキに向ってする。
 ギロリと大男はシュウエイを睨む。
 それは一瞬のことで
「では、メイワ殿。
 今度はお茶でも飲みながら」
 にこやかに笑う。
「それもよろしいですわね」
 彼女はうなずく。
「また、今度」
 カクエキは笑顔のまま、立ち去る。
「行きましょうか」
 彼女は微笑んだ。
 その美しい黄玉石の瞳に映るのは自分だということに、優越感がくすぐられた。

 南城に比べれば遅い春。
 碧桃が咲き誇る院子を二人は散策する。
 想いのひとかけらも伝えることができないまま。
 時間ばかりが空しく、空回りする。
 ずっと、ずっと……。
 想い続けてきたせいで、その想いは自分自身の精神と同化してしまった。
 彼女の笑顔をすぐ傍で見られる。
 その声が、自分の字を呼ぶ。
 手を伸ばせば、届く距離。
 決してふれあわない。
 でも、幸せだった。
 ささやかなことが、嬉しかった。
 夢のようで、夢を見ているようで。
「え?」
 シュウエイは訊き返した。
「明日にはここを発つんです」
 彼女はもう一度言った。
「あ、その、里下がりをするだけです」
 シュウエイがあまり深刻な顔をしたためだろう。
 優しく言った。
「色々なことがありましたでしょう?
 その昨年の秋から。
 両親が心配してしまって、一度顔を見せてくれと泣きつかれまして。
 それで、帰ることになったのです。
 一月ぐらいお暇を頂くことに」
「ああ、なるほど」
 シュウエイは納得した。
 ギョクカンに向った者の多くはすでに家族と再会を果たしている。
 南城から戻ってきた士官も同様だ。
 シュウエイはなかなか暇がないため、両親に会いに行ってはいないが、帰宅を促す書簡は毎日届いている。
「こんなに長い間、姫から離れるのは初めてなんです。
 白鷹城の女官は皆優秀ですから、腕は安心しているのですが。
 寂しがり屋な方だから、心配で。
 環境の変化が一番、大変なんです。
 新米の侍女が来ただけでも、寝込むこともございましたし。
 ……」
 泣き出しそうな笑顔を浮かべる。
 シュウエイの胸がズキンと痛む。
「人のせいにしてはいけませんね。
 私自身が、不安なのです」
 淡い色の紅が塗られている唇から吐息が漏れる。
「家族ともう何年も会っていないのです。
 私が変わったように、皆変わったでしょう。
 血の繋がりは尊いものですが、家族と呼べるほどの情を思い出すことができるのでしょうか……。
 家族と再会する喜びよりも、明日からの姫の生活の方が私の中では重要なんです」
「どんなに遠く離れていても、変わらないものがあるのが家族なのではないのでしょうか?」
 シュウエイは言った。
「そうですわね」
 不安そうな表情は変わらないものの、うなずいた。
「ありがとうございます。
 きっと、誰かにこの胸の内を吐露したかったんですわ。
 聞いていただいたら、すっと重荷が消えてしまったようです」
 ぎこちないながらも、微笑む。
「いえ。
 たいしたことでは……」
「伯俊殿の心の荷物を軽くするお手伝いをしようと思っていたのに。
 これでは全然話が違いますわね」
 声も普段の調子を取り戻して、明るい。
「……充分です。
 貴方の笑顔があるだけで。
 それだけで……違いますから。
 上手く言えませんが。
 貴方の笑顔は人を明るい気分にさせてくれるのです。
 幸せを……分けて頂いているような気がするのです。
 貴方が悩んでいると、とても悲しい。
 だから、ずっと笑っていて欲しいと思うんです」
 シュウエイは一生懸命に言った。
 想っていることの十分の一にも満たなかったが。
 伝わると良いと願いながら、必死で言った。
「伯俊殿は本当にお優しい。
 褒めていただけて光栄です。
 でも、知っていますか?
 誰の笑顔であっても、それが真に喜びで輝いているものであれば、見た者に幸せのお裾分けができるんですよ」
 彼女は唇をほころばせた。
 でも、貴方のは特別なんです。
 シュウエイはぼんやりとそんなことを思いながら、その笑顔に見とれた。


 つまるところ、シュウエイは肝心なことを言えなかったのだった。
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